公園を歩いていると、大きなクマンバチのような死骸が傍らにあった。
たぶん、オオマルハナバチかと思うが…。
彼らがどのような一生を過ごすのか、私には分からないが
生きとし生けるもの、最後はやはり孤独だということ。
特に、野性の世界では死期を悟ると、彼らは群れから独り
離れ静かに天に召されることが多いという。増してやハチに
仲間の死に対する憐憫の情があるとは思えないし…。
人生とは「小さな死の連続だ」という言葉がある。
例えば、交通事故で四肢を失うこともそうだし、手術で胃を全摘出してしまうことも
そうだろう。 しかし、ここでいう小さな死といのは精神のある状態を指すのだと思う。
例えば、恋人にふられてしまい傷心することや、小さな頃から目指していた職業に
就くことができず挫折することもそれに当たるだろう。自分のココロの中のある部分の
「小さな死」と引き換えに、子供は大人になり、大人はやがて老いていくのだと思う。
定年を過ぎて、仕事が無くなるとやることもなく、人生の目標を失い急にふける。
人間にとっての生きる意味とは色々あると思うが、私にとっては自己表現を
通しての「自分探し」に、他ならないと思う。 つまり、鳥類を通して自分の存在意義を
考えることに尽きる。
この写真を見て欲しい。左がアオクビアヒルという家禽、右は野生のマガモの♂である。
色や形態は非常に良く似ている。元々、アヒルは野生のマガモを紀元前以前に飼いならして
家禽にしたものといわれている。だから、アヒルとマガモは遺伝子レベルではほぼ
同種だといえる。アヒルは大きくなりすぎて飛んで遠くにはいけないが、マガモは
その翼で何万キロも世界中を旅する。 同じ遺伝子を持っていながら何かしらの環境要因
で、種が分かれその環境に対応した形態が固定される。
写真のアオクビアヒルは当然、マガモたちが自分の仲間だと思って追い掛け回しているが
マガモたちはそうは思っていないようだ。可哀想に。 自分が何者か?ということは中々
自分自身では分かっているようで、分かっていないことが多いと思う。
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こちらは、コガモの♂。マガモの半分くらいしかないさらに小さなカモだ。
風切り羽だろうか?ビロード状の、グリーンが目に鮮やかである。
これは、いつかのノスリ。秋空を独り占めだ。
若い若いと思っていても、誰もがいつかは夕暮れの季節を迎える。
鳥たちや、この北海道の大自然と向き合っていると、いくつになってもココロは
少年のままでいられると思う。 いささか、哲学的でとりとめのない話になってしまった。
こじつけ気味の内容で恐縮である。 さぁ、こんなことしていられない、フィールドが
オレを待っているから…。
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